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2010.03.01

生物がにがてな人へ  特許情報から見た『iPS細胞』の開発状況 その1 

生命工学にあまり馴染みがない人でも、『iPS細胞』の名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。我が国発の画期的な発明、と言われることの多いこの技術。生みの親である京都大学の山中伸弥教授を総大将として、我が国にて日々精力的に研究開発が進められていると思います。しかし、諸外国も黙ってこの発明の成り行きを見守っている訳ではなさそうです。特にアメリカ合衆国が気になります。この分野で、日本は今でもアメリカに勝っているのだろうか。はたまた、漁夫の利をさらう第三の国、研究機関が登場しているのでは・・・。本稿では、そのような素朴な疑問に対して、特許情報から答えを探してみよう、しかも生物学に詳しくない人にもできるだけ分かり易く、というのを企画趣旨としています。
まずはiPS細胞の説明を少々します。多少なりとも詳しい方は、次のまで読み飛ばしてください。

iPS細胞は、2006年8月10日、京都大学再生医科学研究所の山中伸弥教授らのグループによって、マウスの線維芽細胞から胚性幹細胞(通称『ES細胞』と呼ばれているもので、どんな細胞にでもなれて何回も分裂できる凄い細胞)のような『分化万能性』と『自己複製能』を持つ細胞が作成できると発表されたのがそもそもの始まりです。誘導多能性幹細胞(Induced Pluripotent Stem Cells)と名付けられたこの細胞こそ、その頭文字を取って呼ばれることの多いiPS細胞です。ちなみに、iPS細胞の「i」だけが小文字なのは、Apple社の音楽プレイヤー、iPodにちなんでということらしいです。その当時、このiPS細胞に関するニュースは瞬く間に世界中を駆けめぐり、巷にかなりのインパクトを与えました。何せ、ES細胞が抱えている諸問題(副作用や生命倫理問題など)を一気に解決してしまう可能性が示されたのですから。そして遂に、2007年11月20日、山中伸弥教授らによって、ヒトのiPS細胞が作製されたことが発表されました。

これにより、「日本は万能細胞を使った再生医療分野で一躍世界のトップに躍り出ました!」と、世界に向けて高らかに宣言したいところなのですが、話は少々複雑です。実は何と、同じ2007年11月20日、ウィスコンシン大学のジェームズ・トムソン教授らのグループも、ヒトの胎児の細胞からiPS細胞を作製する技術を別の科学雑誌で発表したのです。つまり、日本は世界のトップであることは間違いないのですが、同率でもう1ヶ国1位がいたわけです。それも、遺伝子工学分野の『超無敵艦隊』ことアメリカ合衆国がライバルだったのです。日・米の両グループは共に、細胞を『初期化』するために4種類の遺伝子を組み込んだのですが、4種類中2つが同じものでした。技術的にはかなり近い内容に思われます。

さらに米国の攻勢は続きます。同年12月には、ハーバード幹細胞研究所のジョージ・デイリーらのグループも、ヒトiPS細胞の作成に成功しております。こちらのグループは、山中教授らのグループが使用した4種類の遺伝子(これらは発見者の山中教授にちなんで『山中因子』と呼ばれています)に、さらに2つの遺伝子をプラスして作成しております。米国では、これら2グループ以外にも、マサチューセッツ工科大学のルドルフ・ヤニッシュらのグループや、ハーバード大学ハーバード幹細胞研究所のコンラッド・ホッケドリンガーらのグループ、UCLAのキャスリン・プラースらのグループから、マウスiPS細胞作製法の改良に関する研究成果が次々と報告されました(Wikipedia 「人工多能性幹細胞」の項より)。この著名な大学、研究者達の重厚な布陣には、ちょっと圧倒されてしまいますね。

さて、本稿では、World Wideに特許文献を調べたいということから、Thomson Reuters社のDWPIというデータベースを使用することにしました。そして、誠に勝手ではございますが、精査する資料は、少なくとも次のA)又はB)のどちらかのキーワードでヒットするレコードとしました。

A) [誘導多能性幹細胞] OR [iPS細胞] OR [胚性幹細胞様細胞]
B) [幹細胞] AND [山中因子]

A)は、iPS細胞の正式名称、略称、別称のキーワードです。B)は、幹細胞のキーワードと山中因子のキーワード群(各因子の論理和)との論理積になります。実際の検索では、表記の揺らぎを考慮したり、具体的な配列名(OCT3/4とか)なども組み合わせたりして検索しており、ノイズを多数含むことは覚悟して行いました。検索の結果、2010年1月19日の更新までに収録されたレコードで、ヒット件数は292件でした。これらのレコードの抄録から、iPS細胞(≒体細胞に山中因子の少なくとも1つを組み込んで作成した幹細胞)に無関係なものを落としたところ、72件のレコードが残り、これを分析対象のマスター母集団としました。

これら72件のレコードですが、パテントファミリー公報中の最先出願年(第一国出願年)にて件数をまとめると、下の図1のようになりました。

2005年の1件というのは、山中教授が出願した、iPS細胞の基本特許となる複数特許群のレコードです。巷(Wikipedia等)では、山中先生の最初の出願は2006年12月とされておりますが、一連の基本特許群の最初の出願は2005年12月13日のようです。2006年には1件もなく、その後2007年にいきなり22件となっています。この22件は、2006年8月10日に山中教授らが『Cell』にて発表した内容を受け、世界中の研究機関で急激に研究開発が進められた成果と思われます。さらに2008年には46件と2倍以上となり、順調に研究開発が続いていることが推測されます。尚、2009年は3件となっておりますが、未公開のものが多数存在すると予想されますので、今後2009年の件数はかなり増加すると思われます(恐らく2008年のものも若干増えることが予想されます)。ちなみに、山中教授の最初の特許以前に、iPS細胞の作成方法を包含するような特許が存在していなかったか、かなり探してみたのですが、残念ながら(?)見つけることはできませんでした。

次に、最先出願『国』(最初の出願国)の情報でレコード件数をカウントしてみました。普通、発明した研究機関がある国に第一国出願を行う場合がほとんどですので、国ごとの研究開発能力の指標として使われています。その結果が図2になります。

日本とアメリカで、全体の約74%を占めています。両国以外では、欧州地区でやっと7件(EPの5件とGBの2件の合計)とかなり少なく、いかに日米両国がiPS細胞でしのぎを削っているかが伺えると思います。アメリカの32件に対して、日本は21件とちょっと心配な件数状況に見えますが、それ程心配には及びません。実は、本家京都大学のiPS細胞に関するWPI抄録は9件あるのですが(WPIの抄録数であって特許件数ではありませんよ、念のため)、その内7件は第一ヵ国出願がアメリカで、日本は僅か2件だけでした。逆にアメリカ系の企業・研究機関の抄録で、日本が第一ヵ国出願になっているものは全くありません。従って、京都大学のレコード数7件を日本側に戻して調整すると、日本が28件、アメリカが25件となり、日本が僅かに逆転するのです。差は3件ですが、1位の座は辛うじて死守しております。

ちょっと怖い存在なのが中国です。中国の5件はいずれもごく最近のもので、中国特許公報でしか公開されておらず、WPIの抄録の内容も簡単なものであるため、発明の詳細が十分に把握できてない状況です。今後の増加も予想されますが、言語の壁があるので、なかなか把握しづらい状況は暫く続くかもしれません。

黄禹錫教授の残念な事件があった韓国、幹細胞研究が盛り下がっているのではと予想していましたが、それでも3件確認されました。日本、中国と合わせ、かなり東アジアの国が頑張っている印象です。

さて、今回のご報告はここまでです。次回以降は、もう少し個々の発明の内容を踏まえてご報告できればと思っています。どうぞご期待下さい。

(IP総研 主任研究員 吉田秀一)

図1 第一国出願年別 レコード件数
図2 第一出願国別 レコード件数

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